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 柊さんがミーティングスペースの椅子から立ち上がった。もう、何回目になるだろう。
 眉間にしわを寄せて、幾分いらだった足取りで事務机の方に向かい、また受話器を取り上げる。
 おれは幾分の苦笑をかみ殺し、その、いつも背筋の伸びた姿を見つめた。
 電話の相手はわかっている。
 神沢だ。

 まったく神沢は、いつも気まぐれだ。
 中條みたいに寝起きが悪くて、とにかく遅刻魔だというなら話がわかるんだが、神沢は今日みたいにひどく遅れる時もあれば、とんでもなく早く来ている時もある。
 もっとも、何であれ、それが神沢喬志なのだということに、おれは慣れてしまっているけれど。
 だけど柊さんは、いくらそれがわかっていても、神沢を放っておくわけにはいかない。担当マネージャーなのだから。
 的場さんや坂上さんも、神沢が来ないことを気にしてはいるようだけど、とりあえず柊さんに全部任せているようだ。
 そう――柊さんが、神沢の扱い方は一番よく、知っている。
 柊さんはさっきから何度も立ち上がっては戻り、その度に苦々しい顔をしていた。きっと、神沢が携帯電話の電源を切っていたんだろう。どんなに耳をそばだてても、柊さんの声は、何も聞こえなかったから。
 が。
 今回は、違ったみたいだ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
 不意に、柊さんの大きなため息が聞こえた。
 そして。
「――神沢か」
 凛とした声が、事務所内に響いた。


「ようやくつかまったか」
 電話を切って戻ってきた柊さんに、的場さんが苦笑して訪ねる。頷く柊さんの顔にも、同じ苦笑の表情があった。
 おれは柊さんの顔をちらりと見やり、そしてすぐに目を伏せた。
 かすかに唇を歪めた、幾分皮肉っぽくすら見える柊さんの顔。
(柊、さん)
 見慣れた顔なのに。
 おれにとっては、どうしようもなく、特別な。
(――雅人さん‥‥)
 心臓が鼓動を速める。
 そう――おれは、この顔を何度も見ている。たいていは神沢がこうやって、神沢流の気まぐれを発揮した時に。
 柊さんは怒らない。叱るだけだ。怒ってもしかたがないとわかっているから。
 神沢は、柊さんに――わかられて、いるのだ。
 どこか胸の奥が痛んで、おれはすぐさまその痛みを呑み込んだ。
(‥‥何をばかなことを考えているんだ)
 沈み込んでいきそうな意識を振り切る。今は仕事中なんだ。
 おれは目の前にある資料に目をやった。
 今日は新しいCM撮影の打ち合わせだ。どうやら、資料を読ませるためにおれたちは早めに集められたようで、代理店のひとはまだ来ていない。
 と、社長がパーテーションの奥から姿を見せた。
「今日はどこで何してんですって? 神沢クンは」
 笑みを浮かべた唇から、歯切れのいい声が流れ出る。
「公園のベンチの日だまりが気持ちよさそうで、ひなたぼっこをしてたそうです」
「相変わらずね、彼も。――‥‥近く?」
 柊さんの言葉に、社長がさらに笑って尋ねた。おれも少しだけ笑う――まったく、今日も本当に神沢らしいことこのうえない。
「ええ。すぐに車が見つかれば、十分もかからないでしょう」
「‥‥なんだよ、それ」
 と、ソファで資料をめくる手を止めて、中條が呆れかえった声を上げた。
「ほんと、あいつ何考えてんだろうな。近くまで来てるんなら寄り道なんかしてねえでさっさとくりゃいいのに」
 そんなことを言う中條だって――。
 おれはふっとおかしくなって、言った。
「そうしたらおまえ一人が大遅刻だよ」
「う――‥‥」
 中條は返す言葉もなくなったらしく、口を尖らせて子供みたいにむくれかえった。
「そうだな、中條。ついさっき駆け込んできたおまえが言えたセリフじゃないな、今のは」
 的場さんよりも先に柊さんの口から、苦笑と呆れの混じった声が漏れて、おれはどきっとした。
 おれの言葉を受けて――柊さんが。
 本当に些細なことなのに。
 何だか、嬉しくなる自分が、ここにいる。
「――‥‥柊さんまでそういうこと言わなくたっていいじゃんかよ」
 中條がさらに拗ねた表情をする。おれは、違う理由で知らずこみ上げてくる笑みを、中條への苦笑にすり替える。
「だが柊の言うとおりだぞ、和也。おまえちゃんと資料は読んだのか」
 的場さんが言う。
「まだ途中だよね、中條。頭のところしか読んでないだろ」
 おれは元から文章を読むのが速いし、中條が遅刻をしてきたというのもあるのだけれど、おれがもう数回目を通してしまった資料の冒頭のところで、中條の手が止まっていたのを、おれは知っていた。
 中條がきょろきょろと、みんなを見回して言う。
「‥‥なんかオレ、よってたかっていじめられてねえ?」
 おれは少し浮かれていたのかもしれないし、仔犬みたいな顔で拗ねる中條をかまいたかったのかもしれない。
 気がつくと言葉が口から滑り出していた。
「ひなたぼっこする気になって寄り道してるのも寝坊するのも、遅刻なのは一緒だ、って話だよ」
「るせー」
 中條がおれにしかめつらをして見せる。
 だけど中條は、本当にからかいがいのある、表情のゆたかなやつだと思う。
 神沢がいつも気まぐれなら、中條はいつも素直だ。わかりやすくて、隠し事ができなくて。
 例えばCMに、子供と動物を出すのは最後の手段なのだと聞いたことがある。何もしなくても、子供も動物も人の目を惹く。その天然の無邪気さとかわいらしさで。
 だから、何の趣向も凝らさなくてもそのCMに視聴者の目が行くことになり、それはルール違反というわけではないが、必然がない限りは極力使わないというのが暗黙の了解らしい。CMクリエイターたちのプライドがそうさせるのかもしれないけれど。
 中條を見ていて、ふっとそう思い――周りを見回して、ほかの誰もがそう思っていることを、おれはみんなの目線のあたたかさで知る。
 そう、これが中條だ。
 そして――。
 かちり、とライターの音がしたのを、おれは耳で捉えた。
 柊さんだ。的場さんも坂上さんも、煙草は吸わない。
 視線を走らせると、柊さんがすうっと息を吸い込んで、煙草の先端の紅い火が鮮やかになるのが見えた。
 整った唇から吐き出される、白い煙。
 おれはひそやかに、それを見ていた。気取られないように。
 そう――これが、おれなのだ。
 見るしか、できない。


   *   *   *   *   *


 柊さんが言っていたように、十分くらいして。
「おはよーーござーいまーす」
 どこか気の抜けた抑揚のない、神沢の声がした。
 見ると、黒いコートをだるそうに揺らしながら神沢が部屋に入ってきたところだった。おれと同じように顔を上げた中條が叫ぶ。
「あ‥‥喬志! おせーよおまえ!」
 神沢はでも何も答えず、にやっと片方の唇の端を上げた。神沢がよくする、皮肉げな表情だ。
 そこへ。
「おはよう、神沢クン」
 たっぷりと笑みを含んだ、社長の落ち着いた声音が響いた。
 神沢が珍しく、体を緊張させる。
「あーー‥‥おはよーございマス」」
「ひなたぼっこは楽しかった?」
「‥‥はは」
 神沢の声は、少しうわずっていた。
「あい。気持ちヨカッタです」
「そう」
 社長はさらに完爾と笑んだ。
「それはよかったわ。じゃあ新鮮な気分で仕事もがんばってちょうだいね」
「‥‥‥‥あい」
 こくんと頷いた神沢は、目線を困ったようにさまよわせている。
 相当、こたえてるみたいだった。
 今はおれは傍観者だけど、当事者だとしたら、微笑まれるよりは、よっぽど怒られる方がましだ。
 これで社長の言葉がいやみ混じりなら、また話は別なのだけど。ねちっこく遠回しに皮肉を言われれば文句のつけようもあるが、社長はもちろんそんな気配も感じさせない。
 つまり社長は、神沢に釘をさすのに、いちばん効果的な方法を採っていることになる。
 こういうところを見ると、社長はやっぱり人の上に立つ人間なのだと――自分より年上の的場さんや、あのブロードウェイでも切れ者と評判だったという柊さんを、たばねているだけの力があるのだと実感する。
「喬志」
 的場さんが柔らかな声で、まだ居心地の悪そうな神沢に声をかけた。
「もうすぐ代理店が来るから。資料だけでも見ておけ」
「あーい」
 答えた神沢が、こっちに歩いてくる。
「ほら。資料だ」
 的場さんは神沢に、ソファに座るよう促して、資料を渡した。
「説明してる時間はないから。ざっと読んでおけ」
「ん」
 神沢がぱらぱらと資料をめくり始める。その、カラーコンタクトで青く染められた目が、いつもよりは少しまじめに文字を追う。

 きゅう。

(――ん?)

「‥‥あれ?」

 おれが疑問を感じたのと同時に、中條が声を上げた。

「今、なんかヘンな音しなかったか?」

 そうだ。
 確かに聞こえた。音といっても、その――聞き慣れない‥‥何というか、機械音ではなくて、生き物の鳴き声みたいな――。

 きゅう。

 もう一度聞こえた。さらに、おれの視界の中で、何かがもぞりと動いたのがわかった。
 そしてその動いた場所から、音が聞こえてくることも。
 でも‥‥。

「神沢‥‥。おまえの‥‥‥‥ポケット?」
「ん?」
 神沢が首を傾げておれを見、おれの視線が向いた方のコートのポケットに、手を入れた。
「コレ?」
 おれの目の前に突き出されたもの。

 白と茶色の毛皮に包まれた、小さくてふわふわの。

 ハムスター、だった。

 きゅう。

 もう一度、そのハムスターが鳴いた。
「はいはい。よしよし」
 神沢は手にのせたハムスターを、そっと指先で撫でた。撫でられると、ハムスターはちっちゃな首を少し傾けて、気持ちよさそうにしている。
 動物と子供には、と、さっき考えたことをおれは思い返した。
 本当に、無条件で目が吸いつけられるくらいに、かわいい。
 と。

「神沢――‥‥‥‥」
 柊さんがため息とともに声を吐き出した。
「なんだ、それは」
「んあ?」
 呆れかえった声に、神沢が手を柊さんの方にさし上げて答える。
「はむすたー」
「見ればわかる」
 柊さんは少し脱力してるようだった。
「なんでそんなものがおまえのポケットから出て来るんだ」
 ‥‥柊さんが脱力してもしかたないかもしれない。
 神沢のポケットで何かが動いたのをおれは見たけれど、‥‥それがハムスターだとは考えもつかなかった。
 と、さらに思いがけない言葉を、神沢が告げた。
「トモダチなったの」
「‥‥‥‥‥‥トモダチ?」
(――え‥‥?)
 おれは目をしばたたいた。同じく呆然と神沢を見つめる柊さんに向かって、神沢がこくりと首を振る。
「うん」
 ハムスターを撫でながら、神沢が口を開いた。
「さっきねー、俺公園いて。ベンチ座ってたらトナリに来たの。野良はむすたーみたい。俺んことじーって見てたから、いっしょ来る? って手出してみたらのってきてさ。だから。連れてきた」
「連れてきた、って――おまえ」
 柊さんがそこまで言って、絶句した。
 神沢は他人が想像つかない行動を常に取るけれど、今回はその中でも、かなりすごい話だ。
 ――でも。
(‥‥野良、ハムスター?)
「神沢」
 おれは、何ともいえない気分で神沢に声をかけた。
「野良猫ならともかく、野良ハムスターなんて聞いたことないよ」
 でも神沢は、不思議そうにおれを見て、また首を傾げた。
「でも首輪ついてないよ。つけるデショ? ふつう」
「つけねーよ、ふつうハムスターには首輪って」
 さすがに中條も呆れかえった声で神沢に言う。
 それに坂上さんや的場さんも加えた、五対の呆れた瞳に見つめられて、神沢は少し拗ねたみたいだった。
(あ――‥‥)
 おれは、その時気づいた。
 神沢は、嘘は言っていない。
 そのハムスターが野良かどうかは知らないけれど、神沢がこの小さな生き物と「友だちになった」ことは、事実なのだ、きっと。
 ふっと、ハムスターに目を移す。ハムスターは目をきょろきょろと動かすだけで、静かに神沢の手のひらの上におさまっている。
「でも、おとなしいんだね」
 それがあまりにかわいらしくて、おれの手は自然とハムスターに向かってのびていた。
「さわってもいい?」
 訊ねると、神沢はどうして俺に聞くの、と言いたげな顔になる。
「いーよ、俺は」
 つまり、ハムスターがよければかまわない、ということなんだろう。おれに向かって、ハムスターをさし出してきた。
 ふくふくとした柔らかそうな毛皮に、びっくりしないようにそうっと指で触れる。
 あったかい――。
 それに。
 おれがさわっても、別に騒ぎもせずに、おれをじっと見て。
 その黒目が、つぶらで。
 おれはそれを見ながら、ひどく幸福な気持ちになった。自然と笑みが浮かんでくる。
 そこへ、坂上さんと中條が、叫ぶと同時に身を乗り出してきた。
「うわーっ。かわいいねー!」
「あ、オレも! オレも撫でる!」
 確かに、こんなに人なつこくてかわいい生き物に、誰だってきっと触れないでいられない。おれはそっと手をはずして、中條と神沢に権利を受け渡す。
 彼らに代わりばんこに撫でられても、ハムスターはきょときょとと撫でる人の顔を見るだけで、噛んだり逃げたり全然しようとしない。本当に人なつこい。
「神沢」
 神沢が柊さんに呼ばれた。幾分硬い声で、柊さんが続ける。
「とりあえずハムスターは小野塚にでも渡して、おまえは資料をちゃんと読め」
「‥‥はあーい」
 おれは時計をちらりと見た。もう、約束の時間を過ぎている。たまたま、代理店が来るのが遅れているみたいだが、でもひどく遅れるという連絡はないから、もう来るのだろう。そうこうしてもいられないのは確かだ。
「よーちゃん、いい? だっこしてくれる?」
「ああ――うん、いいよ」
「んじゃ、はい」
 言われるままに、ハムスターを受け取った。
 おれの手の中で、鼻と口のあたりをひくひくさせながら、でもハムスターはおとなしくしている。
 何だか、幸福になるあたたかさだ。
 もっともそれには、柊さんが神沢に、おれにハムスターを渡すように言ったこともあるんだけれど。
 きっとおれが資料を読み終わっているからだとわかっていても、このかわいらしい生き物を抱えていられるのは、幸せだった。


   *   *   *   *   *


「神沢くん。はい」
 打ち合わせが終わって、代理店の人が帰ったところで、事務の美雪ちゃんがバスケットを差し出してきた。中には、さっきのハムスターが、水色の柔らかなタオルに包まれて、どうやら眠っているみたいだった。
「かーいいカゴね」
「この間、さし入れでもらったクッキーが入ってたの。ちょうどいいサイズだったから」
「ああ。それで甘いにおいするのね」
 神沢が中に指をのばして、ちょん、とハムスターをつついた。坂上さんも覗き込んで、にっこりする。
「ほんっとに、かわいいねー。すっかり安心して寝ちゃってる」
 とそこで、おれは不意に疑問に思った。
 安心して眠っているハムスター。
 今はこうして、クッキーのかごの中におさまっているけれど、いつまでもそういうわけにはいかないはずだ。
「でも――‥‥神沢?」
「ナニ?」
「おまえ、そのハムスターどうするの」
 おれの質問に、神沢がきょとんとした顔で聞き返してきた。
「どーする、って?」
「飼えるの」
 そう――誰かが面倒を見てやらなかったら、このハムスターはきっと生きてはいけないだろう。神沢が言ったみたいに、野良であるわけがない。
 逃げ出したのか、何らかの間違いで飼い主に置いて行かれたのか知らないが、ここまで人に慣れているのだから、ずっと大事に飼われていたに決まっている。
 おれには当然の質問だった。
 だけど神沢には、そうじゃなかったみたいだ。
 その顔が、不思議そうに――本当に思いもかけなかった言葉を聞くひとのそれになった。
 でも、これからのことを考えれば、聞かないわけにいかないんだ。
 しばらくして、神沢の口から、ぎくしゃくとした声が漏れた。
「そ、だね。‥‥飼ったげないと」
(神沢――‥‥)
 おれの胸に、かすかな罪悪感が広がる。
 迷子の仔犬を連れ帰ってしまった子供に、捨ててきなさいと命じる母親の苦さに、似ているのかもしれなかった。
 だけど――。
「やめておけ、神沢」
 そこへ、力強い手が伸びてきて、バスケットが取り上げられた。
(――柊さん)
 おれは軽く息を呑んだ。
「おまえに世話ができるわけないだろう。無理だ」
「あら‥‥そうかしら」
 言い切った柊さんの言葉に、神沢が少し不満げに返す。
 おれは少し、ほっとした。
 神沢にとってこのハムスターは、「友だちになった」のであってペットじゃない。それでも、連れてきてしまえば、ハムスターがひとりで餌を捕獲して生きられるわけもないんだから、人間が飼ってやるしかない。
 おれたちは職業柄、生き物を飼うのは難しいし、神沢の性格だったら、何かの面倒を見るなんてなおのこと大変なのはわかっている。
 しなければいけない質問だったんだと思う。
 だけど、おれがしなくてもよかった質問かもしれない。
 だからこそ、柊さんの助け船が嬉しくて。
「そうだな」
 的場さんも頷く。
「喬志に任せておくほうが心配だ」
「でもさ、じゃあどーすんの? 捨てるわけいかないでしょ?」
 中條が訊ねる。
「誰かもらい手を探すさ。それまでは――」
「あのー‥‥」
 とそこへ、おずおずとした声が割り込んだ。

「ぼく‥‥もらっちゃだめですか、その子」

 坂上さん‥‥?

「ん?」
 柊さんが意外そうな顔で坂上さんを見た。
「おまえが?」
「ええと――はい。ぼくが飼ってもよければ」
 とまどったように、でも坂上さんははっきりと肯定した。
「なんだか、かわいくなっちゃって。知らないひとにあげちゃうんだったら、ぼくが飼いたいなあ、って――」
 坂上さんの言葉を聞いて、的場さんと柊さんが目を見交わす。そして的場さんが、神沢に質問した。
「どうする、喬志」
「え」
「拾ってきたのはおまえだろう」
 続けて柊さんに聞かれ、神沢は軽く目をそらし、首の辺りの髪をいじっている。よくああやりながら、神沢は何かを考えている時がある。
「イヤ、べつに――。坂上さんがそんでいーんだったら俺もいいよ」
「ほんと?」
 困惑混じりの神沢の言葉を聞いて、坂上さんの声のトーンが上がった。
 にこっと大きく笑って、坂上さんは言った。
「ありがとう、神沢くん! ぼくちゃんと世話するからね!」
「うん――」
 照れたみたいな、困ったみたいな、半端な返事をしてから神沢は頭を傾けた。
「ヨロシクお願いシマス」
「うん!」
 坂上さんが本当に嬉しそうに頷く。柊さんの手から、バスケットが坂上さんの手に渡った。
(ああ――‥‥)
 なんだか、ほっとした。
 たぶんこれが、いちばんいいのかもしれない。
 坂上さんなら安心だ。マネージャーというのも、おれたちに付いていなくてはいけないのだから不規則な仕事ではあるけれど、坂上さんならそれも計算に入れた上で、このハムスターの面倒をきちんと見てくれるだろう。
 それに何より、神沢が楽になったように見えたから。
 おれにはそれが、いちばん嬉しくて。
 坂上さんは、柊さんからバスケットを受け取るとすぐさま中を覗き込んで、ハムスターに見入ってるみたいだった。本当に――かわいがってくれそうだ。
 そこへ立ち上がった中條が、一緒にバスケットの中を覗き込みながら、坂上さんに訊ねた。
「坂上さん、こいつ名前どーすんの?」
「なんにしようかなあ。――あ、せっかくだからさ。神沢くん、名前つけてあげてよ」
 言われて、神沢が宙を見上げ、少し眉根を寄せる。
 しばらく考えて、神沢はぽつりと言った。

「ハム」

「‥‥‥‥ハムぅ?」
 中條がおうむ返しにして目をぱちくりする。
「なんだよそれ」
「だってはむすたーだし」
 ――ハム。
 いや、わかるけど‥‥。
「神沢‥‥ストレートすぎない? それ」
 あまりにシンプルかつストレートで、名前というよりも違うものと間違えそうで、おれも怪訝な声になった。
「え、いいじゃない、ハムって名前」
 だけど坂上さんは違った。
「かわいいし、なんだかおいしそうだよ」
 嬉しそうに言う。それを神沢が受けて続けた。
「‥‥食べちゃだめよ、クッキーのいいにおいするけど」
「えー? やだなあ、食べたりしないよ」
 何というか――ちょっと間の抜けたやり取りに、おれは小さく笑んだ。
 大丈夫だ。
 きっとこのハムスターは、大事にしてもらえる。
「でも、もしかしたら飼い主が探してるかもしれないね。神沢くん、あとでこの子拾った場所教えて? 写真撮って、この子預かってます、って貼り紙してみるから」
 坂上さんが付け足すように言った。その常識的な対応に、おれはまた安心する。
「ああ。うん」
 神沢もほっとしたのかもしれない。
 その肩から力が抜けたのが、見えた気がした。


end

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