呼び出し音が聞こえて、ため息がもれた。
ようやく――電話に出る気になったか。
さっきまでは無条件で留守番電話サービスが応答していた。呼び出し音が鳴っているということは、神沢が携帯の電源を入れたということだ。
birdieのメンバーで遅刻魔なのは、寝起きが悪くて時間どおりに来ることのほうが少ない中條だ。葉はそういうところはきちんとしていてめったに時間には遅れない。
読めないのが、神沢だ。
とにかく神沢は気まぐれだ。日によって言うことはちがうし、同じことに対する反応もその時の気分でまったくちがう。現場に姿を見せる時間もまちまちだ。
はじめて神沢がなんの連絡もなく突如姿を見せなかった時にはずいぶんと慌てたものだが、今はもうこちらも慣れきってしまった。どれほど叱っても神沢はこたえないし、心配するだけこちらがばかを見る。
それに――ボイコットかと思うような行動をとっていても、神沢は仕事をいやがっているわけではないのだ。まれにそういう時もないわけではないが、あれでいて神沢はけっこうこの仕事が気に入っているしやる気も持っているのだ。
オーディションを受けないかとスカウトマンに声をかけられる以前の神沢を知っていれば――とはいえ俺たちも調査書類で知っているだけだが――それは明らかだ。
呼び出し音が二度、三度と鳴る。
電話の電源は入れる気になったもののまだ電話に出る気にはなっていないのか――。
そう思った時、ぷつっ、と呼び出し音が途切れた。
「はぁーーい」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
妙な抑揚をつけた、のんびりと間延びのした声に、ため息がもれた。
「ようやくつかまったか」
電話を切ると、的場さんが苦笑まじりに言う。俺も苦笑を返して、頷いた。
「今日はどこで何してんですって? 神沢クンは」
ついたての奥から姿を見せた社長が唇の端を笑ませた。
「公園のベンチの日だまりが気持ちよさそうで、ひなたぼっこをしてたそうです」
神沢が言ったとおりの言葉を伝えると、社長の笑みは深くなった。
「相変わらずね、彼も。――‥‥近く?」
「ええ。すぐに車が見つかれば、十分もかからないでしょう」
「‥‥なんだよ、それ」
ソファで資料をめくっていた中條が呆れた声を出した。打ち合わせのはじまる時間はすぎていたが、まだ代理店の担当者は来ていない。事前にメンバーに打ち合わせの内容説明をして、資料に目をとおさせるために、すこし早めに呼んだのだ。だから、神沢が今からまっすぐ来れば、本番の打ち合わせのほうには間に合う計算になる。
そういう段取りになっているとは教えなかったから、神沢がそれを狙っていたわけではないだろう。そういうこすっからい計算と、神沢は無縁だ。大きな仕事の時でも、たまたまペットショップの店頭にいたカメと目が合ったり、ふいに降ってきた雨に打たれているのがいい気持ちだと思えば、神沢は足をとめる。
どっちが始末におえないかといえば、どちらもあまり歓迎できるわけではないのだが。
「ほんと、あいつ何考えてんだろうな。近くまで来てるんなら寄り道なんかしてねえでさっさとくりゃいいのに」
「そうしたらおまえ一人が大遅刻だよ」
「う――‥‥」
くす、とごくかすかに笑ってからかった葉に中條がむくれた顔になって、俺も社長も、的場さんも坂上もほぼ同時に失笑した。
「そうだな、中條。ついさっき駆け込んできたおまえが言えたセリフじゃないな、今のは」
「――‥‥柊さんまでそういうこと言わなくたっていいじゃんかよ」
本格的に中條が頬をふくらませて、また葉がくすっと笑った。
「だが柊の言うとおりだぞ、和也。おまえちゃんと資料は読んだのか」
「まだ途中だよね、中條。頭のところしか読んでないだろ」
「‥‥なんかオレ、よってたかっていじめられてねえ?」
「ひなたぼっこする気になって寄り道してるのも寝坊するのも、遅刻なのは一緒だ、って話だよ」
「るせー」
追い打ちをかけた葉に思いきりしかめっつらをした中條がどさりとソファに座り直す。唇を尖らせたままではあったが、ほんとうにまだ数枚も読み進めていなかった資料をまためくった。
それを見る葉の目も、的場さんの瞳も、和んでいた。俺も、思わず口元がゆるむ。本人がどこまで自覚しているのかは知らないが中條がむくれると妙な愛敬があって、場の雰囲気がなごむのだ。からかわれる中條は災難だが、低血圧でどうやっても体が動かなくて起きられないわけではないのだからあまり同情はしてやれない。
とりあえず、神沢はつかまえた。あとは来るのを待つだけだ。やつも仕事を嫌っているわけではないし、重要な打ち合わせだということはわかっている。これ以上さらに雲隠れをしたりはしないはずだ。
俺は背広のポケットから煙草を出して、火をつけた。
* * * * *
「おはよーーござーいまーす」
相変わらずの声が聞こえてきたのは、それからほどなくしてのことだった。
「あ‥‥喬志! おせーよおまえ!」
神沢の声に、ぱっと顔をあげて中條が唇をとがらせる。神沢は唇の端だけをにやりとあげて肩をすくめ、ぐるりと事務所の中を見回した。
「おはよう、神沢クン」
社長が腕組みをしてにっこりと笑い、さすがに、神沢の口元がひきつった。
「あーー‥‥おはよーございマス」」
「ひなたぼっこは楽しかった?」
「‥‥はは」
さらに神沢の頬がひきつる。
「あい。気持ちヨカッタです」
「そう」
いっそう笑みを広げて、社長は大きく頷いた。
社長はめったなことではタレントを叱ったりはしない。どんなところでも個性だし美点だと考える女性だ。
神沢の気まぐれが判明して間もないころ。俺は神沢を朝早くからマンションの前で待ち伏せて強引に現場へ連れていったり、隙をついてスタジオから逃げ出されて追いかけっこをやらされるはめになったりと振り回されていた。
その俺のほうを、むしろ社長はいさめた。
「いちいち青筋立てないで好きにさせたげなさい。仕事いやがってないんならちゃんと現場には顔出すから。――‥‥ああ、でも、手綱はちゃんと締めないとだめよ」
叱りつけて時間を守るようにさせろ、と言われるよりも難しいオーダーだった。
一時が万事、社長はそうだ。まあ、トップがきりきりしているとかえってこちらはやりづらいから、そうやって鷹揚に構えていてくれたほうが助かりはするのだが。
「それはよかったわ。じゃあ新鮮な気分で仕事もがんばってちょうだいね」
「‥‥‥‥あい」
神沢のほうも、かえって叱られないほうがこたえるのだ。人形のような動作でかくんと頭を前に倒して頷いたが、ずい分と居心地の悪そうな顔をしていた。くっくっと社長が喉の奥で笑う。
――わかっていてやっているのだから、彼女も人が悪い。
「喬志」
苦笑いを浮かべて、的場さんが神沢に声をかけた。
「もうすぐ代理店が来るから。資料だけでも見ておけ」
そういうフォローは的場さんか坂上に任せておいたほうがいい。俺は直接の担当だけに、こわもての叱り役でいるべきなのだ。――そうやって扱われたほうが、神沢は気が楽なのだから。
「あーい」
ため息をついた神沢が頷いて、社長の傍らをすり抜けて中條と葉のいる打ち合わせスペースへ行く。
「ほら。資料だ」
神沢に座れと目で示して、的場さんが資料をさし出す。
「説明してる時間はないから。ざっと読んでおけ」
「ん」
もうひとつ頷いた神沢が資料をめくって文面に目をおとした。ふだんはあまりそうしたものにまじめに目をとおすやつではないのだが、社長の目があるからだろうか。ひなたぼっこを叱られなかったのがこたえているのかもしれない。
「‥‥あれ?」
中條がぱちりとまばたきをして首を傾げた。
「今、なんかヘンな音しなかったか?」
‥‥‥‥?
俺には何も音は聞こえなかったが、やつらのいるあたりで何か音がしたらしい。葉もけげんそうな顔になって神沢を見る。
「神沢‥‥。おまえの‥‥‥‥ポケット?」
「ん?」
神沢が首を斜めに傾けて傍らの葉に視線を向けた。コートのポケットに手をつっこむ。
「コレ?」
ちいさな茶色っぽいものをポケットからつかみ出した神沢に葉が目を見開き、中條がぽかんと口をあけて、事務所じゅうが静まり返った。
きゅう。
細い鳴き声が、今度ははっきりと聞こえた。
「はいはい。よしよし」
神沢の手のひらにちょこんと座ったそれが首を傾げるようにする。ちいさく笑った神沢が、指先でそれの頭を撫でた。
「神沢――‥‥‥‥」
大きなため息が、声とともにもれた。
いったい、どこでそんなものを。
「なんだ、それは」
「んあ?」
きょとんとまばたきをして、神沢はふしぎそうに俺を見返してくる。手を顔の前へ持ち上げて、ほら、とでも言いたげにさし上げて見せてきた。
「はむすたー」
「見ればわかる」
俺はもう一つ、大きなため息をついた。
わかるから、訊いているのだ。
「なんでそんなものがおまえのポケットから出て来るんだ」
神沢が言ったとおり、それは間違いなくハムスターだった。
「トモダチなったの」
「‥‥‥‥‥‥トモダチ?」
「うん」
思わずおうむ返しにすると、神沢は平然と頷いた。あいた手の指先でハムスターをつついて撫でる。
「さっきねー、俺公園いて。ベンチ座ってたらトナリに来たの。野良はむすたーみたい。俺んことじーって見てたから、いっしょ来る? って手出してみたらのってきてさ。だから。連れてきた」
「連れてきた、って――おまえ」
神沢の突飛な行動にはいい加減慣れていたつもりだったが――。
「神沢」
思わず絶句すると、葉がちいさく息をついて、神沢を呼んだ。
「野良猫ならともかく、野良ハムスターなんて聞いたことないよ」
「でも首輪ついてないよ。つけるデショ? ふつう」
「つけねーよ、ふつうハムスターには首輪って」
中條の声も呆れていた。
的場さんも坂上も似たような気分でいるらしく、呆れた表情で神沢を見ている。神沢はちょっと拗ねたように唇をとがらせた。
「でも、おとなしいんだね」
神沢の表情を見たのか、視線と声をやわらげて、葉がハムスターのほうへそっと手をのばす。
「さわってもいい?」
ごくかるく、神沢は眉をあげた。
「いーよ、俺は」
頷いて葉のほうへハムスターをのせた手をさし出す。
葉の指先がそっと、ちいさな動物の顔に触れた。
ハムスターはいくらかきょとんとした様子で首を傾げ、葉のほうへ視線を向けてじっとしている。
ふわりと、葉の表情に笑みが広がっていった。
「うわーっ。かわいいねー!」
「あ、オレも! オレも撫でる!」
どうやらハムスターが人に触れられることに慣れているらしいと気づいて、坂上と中條がほぼ同時に歓声をあげて身を乗り出していった。
三人で神沢を取り囲むようにして、ハムスターを撫でては歓声をあげる姿に、的場さんも、苦笑まじりに笑みを浮かべる。
放っておいてやってもいいのだが――時間があまりない。
「神沢」
あえていくらかこわい声を出して、神沢を呼んだ。
「とりあえずハムスターは小野塚にでも渡して、おまえは資料をちゃんと読め」
「‥‥はあーい」
首をすくめて神沢が頷く。
「よーちゃん、いい? だっこしてくれる?」
「ああ――うん、いいよ」
「んじゃ、はい」
葉の手のひらにハムスターを預けて、神沢は膝の上に置いたままにしてあった資料をあらためて広げた。
* * * * *
「神沢くん。はい」
社長も同席しての代理店との打ち合わせが終わって、担当者を送り出したあとで、事務の原口が神沢にちいさなバスケットを渡した。打ち合わせの間、ハムスターは原口が預かっていたのだが、どうやらそれに入れて臨時のケージにしたらしい。
「かーいいカゴね」
バスケットを受け取り、中をのぞいた神沢が言う。
「この間、さし入れでもらったクッキーが入ってたの。ちょうどいいサイズだったから」
「ああ。それで甘いにおいするのね」
頷いて、神沢はバスケットの中にいるらしいハムスターを指でつついたようだ。
「ほんっとに、かわいいねー。すっかり安心して寝ちゃってる」
やはりバスケットの中をのぞきこんで、坂上が大きく笑んだ。どうやらかなりハムスターが気に入ったらしい。
「でも――‥‥神沢?」
いくらか思案深げな表情になった葉が、神沢を見やる。神沢は首を傾げて葉を見返した。
「ナニ?」
「おまえ、そのハムスターどうするの」
きょとんと、神沢の目が見開かれた。
「どーする、って?」
「飼えるの」
重ねて、葉が問う。
神沢は――ひどくぽかんとした顔になった。
どうやら、自分が動物を拾ったのだという意識がなかったらしい。そういえばさっきも「拾った」のではなく「連れてきた」と言っていた。
神沢らしいと言えば、そうも言えるが――。
「そ、だね。‥‥飼ったげないと」
「やめておけ、神沢」
会話に割り込んで、俺は神沢の手からバスケットをとった。
「おまえに世話ができるわけないだろう。無理だ」
「あら‥‥そうかしら」
ちょっと不本意そうな顔になって、神沢が唇を尖らせる。だが、本気で反論しているような口調ではなかった。むしろ目はどこかほっとしたような表情を浮かべている。
神沢は他者と深い関わりを持つことを嫌う。そんなやつが動物を飼いたいと思うはずがないのだ。
なにか心境の変化があってそのつもりでいたのなら、葉に指摘された時にあれほど虚をつかれた表情はしないだろう。それこそさっき、「拾った」「飼う」と言ったはずだ。
だが考えていなかったとはいえ、神沢にも、動物を拾った以上は世話をする責任があるということはわかっている。自分から「いやだ」とは言えない。
俺が反対して取り上げるという形をとったほうが、神沢も楽なはずだ。
「そうだな」
的場さんも気がついたらしく、頷いた。
「喬志に任せておくほうが心配だ」
「でもさ、じゃあどーすんの? 捨てるわけいかないでしょ?」
「誰かもらい手を探すさ。それまでは――」
「あのー‥‥」
首を傾げた中條にこたえていると、おずおずと声をあげた人間がいた。
「ぼく‥‥もらっちゃだめですか、その子」
「ん?」
そう言ったのは――坂上だった。俺はいくらか目を見開いて、坂上を見る。
「おまえが?」
「ええと――はい。ぼくが飼ってもよければ」
どこか気おくれしているような様子で、坂上は頷いた。
坂上は、神沢のように人嫌いでもないし決してつき合いも悪いほうではない。だが、どちらを選ぶと言われれば仲間と遊びに行くよりも部屋でパソコンをいじっていることを選ぶたちだ。
だから坂上が自分から動物を飼いたいと言い出すのは、多少意外だった。事務所の人間が手をあげるなら、たとえば原口なら、俺もとくに意外には思わないが。
坂上自身も、自分のことながらそう思う部分があるのだろう。多少口ごもりながら続ける。
「なんだか、かわいくなっちゃって。知らないひとにあげちゃうんだったら、ぼくが飼いたいなあ、って――」
的場さんが俺を見た。俺も目で頷き返す。
坂上が飼いたいというならとくに異論はない。パソコンのほうが性に合うとは言っても、べつに世話を怠って死なせてしまうようなことは、坂上もしないはずだ。ことに、自分から世話をさせてほしいと言い出したのだから。
的場さんが神沢に目を向けた。
「どうする、喬志」
「え」
「拾ってきたのはおまえだろう」
またぽかんとした神沢に、続けて俺も声をかけた。目をそらして、神沢は片手を首のあたりへあげて、髪先をいじりはじめた。よく神沢のするクセだ。
「イヤ、べつに――。坂上さんがそんでいーんだったら俺もいいよ」
多少くぐもった声だったが、自分が飼いたい――わけではないようだ。ハムスターの運命を自分が決めてしまうことに抵抗があるのだろう。
「ほんと?」
坂上は、だが神沢の微妙な逡巡には気づかなかったようだった。ぱっと笑顔になって、目を輝かせる。
「ありがとう、神沢くん! ぼくちゃんと世話するからね!」
「うん――」
まだいくらか複雑そうに、神沢は口ごもった。それから頷いたとも頭を下げたともとれる仕草で頭を前へ倒す。
「ヨロシクお願いシマス」
「うん!」
坂上は大きく頷いて、俺はハムスターの入ったバスケットを坂上に渡してやった。
さっそく再びフタをあけて、坂上が目を細める。立ち上がった中條が、坂上の肩ごしにバスケットの中をのぞきこんだ。
「坂上さん、こいつ名前どーすんの?」
「なんにしようかなあ。――あ、せっかくだからさ。神沢くん、名前つけてあげてよ」
また話を振られて、神沢は半ば困ったような、ちょっと考える顔になった。
「ハム」
「‥‥‥‥ハムぅ?」
ぼそりと言った言葉に中條が頓狂な声をあげる。
「なんだよそれ」
「だってはむすたーだし」
「神沢‥‥ストレートすぎない? それ」
「え、いいじゃない、ハムって名前」
葉もいくらか呆れた様子だったが、一人坂上だけはいっそう笑顔を大きくした。
「かわいいし、なんだかおいしそうだよ」
「‥‥食べちゃだめよ、クッキーのいいにおいするけど」
「えー? やだなあ、食べたりしないよ」
神沢の言葉に坂上は明るく笑って首を振った。
たしかに坂上はその気になればかなりの量を食べられる男だが、大食いというわけではない。そんな釘をさす神沢も神沢だが、まじめに否定する坂上も坂上だ。
「でも、もしかしたら飼い主が探してるかもしれないね。神沢くん、あとでこの子拾った場所教えて? 写真撮って、この子預かってます、って貼り紙してみるから」
「ああ。うん」
フォローのつもりだったのか、さらにそう言った坂上に、神沢はこくりと頷いて、――どこかほっとしたように息をついた。
end
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